自慢のばあちゃん、1話目

spoutnik2005-10-07

ロッコ日記もまだ前半で止まっているのだけれど、今日は書いておきたいことがあるのですっ飛ばしてみた。モロッコ日記は気長に書くことにしよう。

そもそもモロッコ旅を決めたのは、バイトの休みがいきなり決まった9月の上旬。20日もの連続したお休みを貰えるのも次いつあるか分からないので(まぁ言えばくれるんだろうけど)、当然日本に帰ることも考えた。
フランスにいていちばん気になる存在の人。それは92歳になったばかりのおばあちゃん。もう歳も歳なので、帰れる時に帰って会っておきたいことは言うまでもない。だけどやはり日本に帰るとなると一大事。安い航空券を探したりする「準備期間」もいるし、成田から広島まで(もしくは関空から)の移動の時間もかかる。最低でも3週間は欲しいと思っていたので、今回の休み20日間、は、迷った。

そこで休みが決まってすぐに親族に連絡を取り、おばあちゃんの様子を聞いて回ったところ、「今のところ全然元気、どこも悪い所もないらしい、だから今回急いで帰るよりも、正月とか来年の夏にもう少し時間的に余裕を持って帰ってくればいいんじゃないのか」という返答が帰って来た。もちろん92歳なので、若干忘れっぽい、食が細い、といったことはあるものの、電話で話す感じも元気、母親にも「今回の休みは自分のために使いなさい」と言われ、ばたばたとモロッコ行きを決めたのであった。

ところが。モロッコ出発当日の朝、母親からこんな内容のメールが入った。
「最近会った時にも何も言っていなかったのに、実は先週おばあちゃんはひとりで電車に乗って医者に行って、検査を受けたらしいのです。その検査によると、腸にポリープのようなものがあって、それが原因でここ最近血便が出ていたようです。来週すぐに総合病院で詳しい検査をするそうです。」

おばあちゃんは、もうわたしが小さい時からおばあちゃんなのだけれど、ずっとおばあちゃんちでおじちゃん夫婦と暮らしている(昔はわたしのイトコ兄弟もいたけれど、今はそれぞれ別に所帯を持っている)。戦時中はおじいちゃんの仕事の関係で台湾に移住していたために、広島に元々あった家は無くなってしまったけれど、幸いにも原爆にあう事なく戦後を迎えた。台湾で2人の子供を産み、戦後持てるだけの荷物を持って何も無くなった広島に一家揃って戻って来た。

広島に戻ってからの生活についてわたしはあまり詳しいことは知らないが、容易いものではなかったことは間違いない。その後、結核にかかったおじいちゃんが闘病の末亡くなり(わたしの母親が20歳の頃)、それからまたしばらくしてわたしが産まれた時には、もうおばあちゃんはおばあちゃんであった。
わたしの家は両親共働きで、わたしはひとりっこだったので、小さい頃は両親と過ごした時間よりもおばあちゃんと過ごした時間の方が多いような気がする。毎日電車に乗ってうちまでやって来て(まぁそれほど遠くはないけれど、駅からの徒歩が15分ある)、わたしを保育園に迎えに来てくれ、夕ご飯を作ってくれた。小学校に上がっても、風邪をひいて学校を休むような日は朝からうちに来てくれて、おかゆを作ったり、熱を測ったり、身体を拭いたりしてくれた。母親の帰りが遅い日にはかわりにいつもあばあちゃんがいてくれた。あれほど両親の留守の多い家庭で、しかもひとりっこで、それでも「孤独な幼少期だった」と思うことなくここまで育ったのだと心の底から感謝している。

そのおばあちゃんの口から戦争の話を聞いたことはあまりない。ただ、80歳を超えた辺りから周りの友達もだんだん亡くなったりして、淋しくなったおばあちゃんから、「もうわたしゃぁ生き過ぎた気がする。死に時を逃してしまった。もうこれ以上生きていても、また次の戦争が来るような気がして怖い」というような言葉が漏れるようなことがあって、戦争を体験し、戦前を生き抜いて来たおばあちゃんのようなお年寄りがこんな風に怯えなくてはならないような社会に強烈な憤りを感じたことは、今も鮮明に覚えている。

そのおばあちゃん、うちの(母方)親族の間ではちょっとしたゴッド・おばあちゃんである。みんながおばあちゃんを中心にまさにちょっとしたファミリーを形成している。というのもわたしをはじめ、わたしのイトコ達は全員、多かれ少なかれおばあちゃんの手によって育てられたようなものだからだ。横浜のおばちゃんの家にも、3ヶ月とか半年といった長い期間滞在して、忙しいおばちゃんの家事の手伝いをしたりイトコ兄弟の世話を焼いたり、すごい行動力であった。おばあちゃんと一緒に住んでいたイトコ兄弟については言うまでもない。夏休みの書道の課題を手伝ったり、ものぐさなイトコの代わりに夏休みの天気を記録したり。わたし自身よくおばあちゃんちに泊まりに行ったものだ。私たち孫を引き連れて横浜まで、ということも小さい頃何度もあった。お陰で筑波万博も、上野動物園のパンダも、できたてのディズニーランドも、サンシャインも、横浜博も、小学生で見に行った。
一度、孫3人とおばあちゃんとで映画館に「ハチ公物語」を観に行った時は、おばあちゃんが号泣して困った。
そんな「みんなのおばあちゃん」、もうわたしの物心がついた頃にはすでに、毎年おばあちゃんの誕生日といえば母方親族が一同に会する大イベント、という感じであった。喜寿、米寿の折にはひとりひとり涙ぐみながらおばあちゃんへの言葉を言う、結婚式か?!みたいな感動があったりする。

そして、たしなんでいるお稽古ごとがまたすごい。もうかれこれ数十年続けていると思われる、書道、編み物、陶芸。孫たちのみならず、大人もみんな、おばあちゃんの手編みのセーターやら手袋やら靴下をいくつか所有しているはずだ。一昨年くらいにあった時にこんな会話を交わした。
「おばあちゃんすごいねぇ、まだ陶芸続けてるんだね〜!」
「ほぉよ、もうおばあちゃんと同じ年代の友達はみんな亡くなってしもうてね、今は若い人ばっかりで、辞めようかとも思ったんじゃけど、みんながおばあちゃんのことを大先輩って言って、続けてくれって言われてねぇ〜」
「すごいね〜、そうだよ、続けたほうがいいよ」
「でもねぇ〜、もう若い人とは話もあわないしねぇ・・・」
「ねぇ、若い人って幾つくらいなん?」
「70とかねぇ、まぁ80くらいまで、かねぇ・・・」
「70!若いね〜(笑)!」
92歳になった今では、もう料理からは引退、編み物もセーターのような大掛かりなものは1年くらい前で終わりにしてしまったようだけれど、そのかわり部屋には「ボケ封じ10訓」なるものが(自筆、もちろん毛書)貼ってある。野球と相撲は必ず見ていて、野球に関してはテレビの放送が終わっても試合が続いている時はラジオでちゃんと最後まで聞く。(言うまでもないことだが、もちろんカープファンである。)
「ボケ防止にいいらしい」と言っていきなり90前になってガムを噛み始めた時は、親族みんな驚きでのけぞった。
こう書くと、なんだかちゃきちゃきのおばあちゃん、という雰囲気だけれど、実際はかなり上品な淑女である。

そして何より尊敬に値するのが、今の年齢に至ってもオシャレを忘れないことである。2年ほど前にイトコの結婚式が横浜であったのだけれど、その式に出席するのにビシッと着物を着たいという理由で、その日にあわせて内臓に溜まっていた水を抜く手術をした。(本人期待したほどスマートにならなかったらしいが。)
そして横浜に行く度にデパートで新しい靴や服をおばちゃんと一緒に選びに行き、オシャレをして文芸座に歌舞伎を見に出かけたり(ひとりで!)するのである。かっこいい。
ちょっと前に、玄関で転んでメガネを割った時も、周りは「転んだ!」という事実におっかなびっくりだったにも関わらず、おばあちゃんは「そろそろメガネも度が合ってなかったし、新しいのに替えたかった」と、わざわざ電車に乗って市内の眼鏡店まで出かけて新調していた。

そのおばあちゃんの長寿の秘密は、歯、にある。92歳にして、ほぼ全部の歯が揃っている。市から表彰されたくらいである。それから、これも何十年前から続いている習慣だか分からないが、夕食の時にコップ1杯ビールを飲む。(しかもここ数年は350ml1缶飲んでるらしい。)
あとはやはり、多趣味ということ。

このようにわたしにとって話の尽きない、誰よりも尊敬するおばあちゃんのポリープが見付かったという知らせが入ったのがモロッコに出る直前。モロッコでは、ネットで母親からのメールが見れるまでは結果が気になって眠れない日もあった。・・・結果は決して良いものではなかったけれど。